昭和51年03月18日 月次祭
二、三日前の朝の御理解に、鬼の世から神の世と言う事を頂きました。今教団で御取次ぎ成就信心生活運動二十数年間、そういう運動が持たれてありました。けれども一向信心生活運動が発展になりません。そこでその新発足御取次ぎ成就新発足、御取次ぎ成就と言う事は教祖金光大神様が、天地金乃神様よりご依頼を受けられて、世間に何ぼうも難儀な氏子があり取り次ぎ助けてやってくれと神頼みを受けられて金光教が始まった。
世間にはなんぼうも、沢山な難儀な氏子があるのでございますけれども、そういう手掛かりを持たない。お取次ぎを頂くという事すら知らない。お取次ぎを頂いて、信心の世界にはいると言う事が、ね。人間の幸せの第一歩であると言う事も知らずにおる、多くな難儀な氏子に取次ぎ成就信心生活運動を起こされたのでございますけれども、一向にそれが、発展していかない。
そこで今年の六月から、新たな発足を見ようと。内容を反省させてもらい、そしてこれを社会の人達にいうなら、難儀な人達に語りかけて行こうという運動が、起こされようとする今丁度、前夜のような状態が続いております。朝私御祈念のときに、その御取次ぎ成就信心生活運動の新発足の事について、お願いをさせて頂いておりましたら、鬼の姿をした人がこのマイクを持ってね、一生懸命こうやってまあ、街頭に立っていうなら難儀な氏子に呼びかけておると言った様な状態です。ね。
このまあこれをこう持ってから一生懸命その、話しかけて語りかけておるわけです。所が鬼が話しよるとですから、みんなが怖がってそばに寄りつかんと言った様な感じの御心眼を頂きましてね。その日鬼の世から神の世にという御理解を、その朝頂きました。鬼の世と言えば、もういかにも角の生えた、このあの赤鬼青鬼という、ああいうという意味ではなくて、また神の世だからと言うて、みんなが神様のようにならなければ、神の世というのではなくて、ね。
まあいうならば知恵の世から、心の世へと言う事になります。ね。教祖様のお話になっておるお言葉の中にもう百数十年前に、今は世の中が開けた開けたというけれども、開けたのではない。めげていくのぞと仰る。愈々めげにめげてまいりまして、現在いわば地球の危機と言われる時代に到来しておるのであります。本当に神様の目からごらんになれば、地球に死相がでとるという。いうなら寒天危地であります。神様天寒、寒いと書いてある。神様がそれこそ肌に青を感じるような、ね。
身震いするような思いでおられるのだと。人間の住む地球上に死相が出た。それをどうでも人間が、愈々永劫助かって行く事のために、歓天喜地にしなければならないというのであります。その歓天というのは天の歓びと書いてある。ね。歓喜の歓です歓天。きちというのは、ね、地上に喜びが一杯と言う事。この喜びですね寒天危地、神様の心を寒からしめるような世の中というものがです。ね。地球上に死相が現れておると、神様を嘆かしておる、そういう世の中をです、ね。
いうならば喜びに溢れる地球に、世界にしなければならない。そういう願いをいうならば、金光教の信者信奉者にそういう期待をかけられてある。も少し言うと合楽の信者、信奉者にかけられておる。和賀心時代を創ると言う事は、そういう世界を広げていこうと言うのでございます。いうならば心の世界。みんなが全てもう完全に、和賀心と言った様な事は出来んにしましても、人間の幸せというものは、自分の心が和らいでおり、しかも喜びに満ちておる。
毎日がおめでとうございますと言う様な、明るい朗らかな世の中というものがです。ね。生まれてこない限り世の中の幸せはありえないとして、そういう方向に、人間が向きを変えるという事であります。みんなが神様になってしまわねばならん。成仏しなければならない。金光教の信心は生神が目指し、焦点であるからみんなが生神様にならんならんというのではなくて、その生神を目指すのであり、成仏を目指すのであります。ね。死屍たる後、神にまつられることを楽しみに信心せよと仰せられる。
私共が死んだら、ね。霊神様にお祭りをしてもらうから、神様と言う事ではない。私共が、ね。精進次第によって一歩一歩神に近づいていく道を、そういう手掛かりを付けておけと言う事であります。この世の中が鬼ばっかりの世の中になったというのではなくて、いうならば、知恵の世の中人間が、ね。もう神心に対する人間心。人間心だけで生きていこうとする。人間が人間の知恵によってです、いうならば地球の月の世界にも飛んでいけるというほどしに、人間の頭は開発された。ね。
けれども一向に幸せは到来しない。これは知恵だけではいかん、頭だけではいかん。ね。これは、心に焦点を置き換えなければいけないと、ね。一部の学者は悟ってきたという話であります。信心させて頂く者は、もう一から十まで心に焦点を置いての、いうなら信心生活がなされなければならんのにもかかわらず、段々神様を頭で考える。いうならば机上の神様にしてしまったという感じ。そういう私は教祖様の、ね。開けるというけれども、開けるのではないめげるのぞと。
めげにめげてきて今日があるように、なら金光教の信心も、ここ百年経たして頂いておる間に、それこそ触れば温かみを感ずるような、つつけば血が飛び出るような、生々しいまあ、生き生きとした神様を頂いておった時代から、段々言うなら、ね。頭の神様。いうならば頭でっかちの信者、先生が多くなって人が、愈々助かると言う様な事には程遠い事になろうとしつつあるのが今の金光教だと。一時三百万と言われておった信者、信奉者が現在五十万はあるだろうかと危惧されております。
世界の名教だ。もう類のない宗教だと。いかに自分よがりを言うておっても、人が助からなかったら名教も名教の値打ちはありません。ね。知恵の世から愈々心の世に変わらなければならない。ね。今日は四時の御祈念に合わせまして、吉井の熊谷さんの二度目のお母さん。義理のお母さん熊谷さんを、当時の椛目の教会椛目のお広前に、お導きになったお方であります。いわば熊谷さんの導きの親であります。ね。
中々さっぱりしたお方でしたが、そうその熱心に信心なさる方じゃないですけれども、それを吉井においでられる、いわゆる、娘の熊谷さんに信心を伝えられた。それが合楽で今はこんなに熱心にご信心をなさっておられる元になっておるのです。なくなられて今日がちょうどその、帰幽日にあたっておりました。それでそのお祭りをお祭りというよりも、私がご挨拶をさせて頂きました。
そしたらあの神様から頂くのがね、この合楽の楽という字をもうこれ以上は崩されまい、これ以上崩したらもう、楽という字には読まんだろうと言う位に、もう楽という字をいわば崩しに崩した、言うなら草書ですね、であの頂きました。だからまあいうならば、ね。最高の世界を極楽というならば、ね。その極楽の過程におられると言う事。これが草書に、行書になり楷書になり、きちっとした楽を頂かれた時こそが、愈々極楽の世の中ではなかろうかと思うですね。
先日から福岡の、川上さんの所のご両親が鹿児島におられます。ご主人のご両親。まあ普通でいうなら、まあ頑固というのでしょうね。子供がおってももう子供には拘らん。もうおれ達だけでやって行くと言うような、まあお方だったらしい。まあ大変お強いお方だったそうですけれども、このごろから具合が悪いと言われて、二回ほどおいでられました。もうだいぶん気分も弱くなって、神様の話も良く聞かれるようになり。
御神米なんかでも持って行かれたら、押し頂いて頂かれるように、心がまあ神様のほうに向いておられた。そして帰られて何日かしたら、亡くなられたという通知を受けられて、そしてお二人であちらへ行って、まああちらでお葬式をなさったわけです。お遺骨もこちらへ持って見えられまして、そして十日十日の、十日祭をもう本当に思いを込め、真心を込めて、生前は信心のしの字もなかった父でございますけれども、まあいうならば頑固な父でございましたけれども。
御神縁を頂いてこうして、金光様のお取次ぎを頂いて、これから助からせて頂かねばならん。それで五十日祭が終わったら、お遺骨もこちらにお祭りさせて頂きたいというて十日、十日、十日祭、二十日祭、三十日祭が四、五日前でございました。十日祭の時にご挨拶をさせて頂きましたらこの足のももどに、もうこんな大きな腫れ物が出来とる所を頂いた。化膿してねそのそれをね、誰かがこう静かぁに、こうおしてやってる。
それがもうほっかり膿が出てしもうて、はぁほっかりしたと言った様な感じの、御霊様のいうならば、そういう感じの事を、お知らせを頂きました。ね。子供の信心によってです。もうそれこそ苦しい、とにかくもう足も上がらんごたる、いうならば状態であったのがおかげを頂いて、こう膿を出してもろうたから、もう本当にほっかりしたと言う様な感じであった。二十日祭の時にはです。丁度あの赤ちゃんが頂くようなビスケットに、こう上から、チョコレートをかけてね。
そしてそれに牛乳を添えて頂いた。もうそれこそ湯水も通らんと言った様な重態患者が、牛乳が頂ける様になったお粥さんが頂ける様になったというでしょう。いうならば御霊がそういう状態で進むいうならば助かりに近付いていっておる。もう手も足も上がらんごたる状態のつが二十日祭のお祭りの時には、もう牛乳が頂けまあ軽いビスケット位ならば、頂いてもさわらんと言う位に、御霊様がおかげを頂いておられる。
三度目には丁度、二時ごろでしたが、私がお祭りさせて頂いて、私が四、五人で誰かあの御理解を聞いておられました。そしたらあの御霊様がねその御理解を、素直に拝聴しておる、頂いておるというお知らせを頂きました。言うなら今までは神様のお話なんてと言うておった者がです。いうならば五感を外して魂の世界に入った。御霊様の世界に入ったらもう心だけの世界である。その魂が癒えたい喜びを受けたい助かりたい、そういう一念が子供の信心を、一つの手掛かりとして。
それこそ十日祭にはほっかりするような心の状態になり、二十日祭にはすこうしぐらいは牛乳でも頂ける、ビスケットぐらいなもんなら頂けるというぐらいにおかげを頂いて、いうならば三十日祭には有難い御教えを聴聞するという、素直な心の状態になっておると頂いた。この直という字ですね。素直の直という字のこうありましょう。その直という字はこう何か引っ掛けたような感じで頂きましてね。ははあこのようないうなら、頑固な感じの方だったじゃないだろうかと、私は思うた。
そして私はです。その御霊が素直にその御教えを聴聞すると言う事は、自分の心が清まり、自分の心が助かっていく手掛かりが、あの御理解なのです。御教えなんです。それを、素直に聞き耳を立てるほどしに、心が進んでおると言う事。私はその御心眼を頂かせてもらい、お知らせを頂きながらです。恐らくこの直という字にです。四十日祭には一つの点が付くだろう。五十日祭にはもう一つの点が付くだろう。真という字になるでしょう、ね。そして真の道に入って行くであろう。
それからもう限りなく真の道を進んでいく手掛かりを作っていうならば、神に向かう成仏へ向かっての、御霊ながらの働きが出来るようなおかげを頂くであろうと思うたら、本当に感動が湧きました。ね。信心のなかった、しかも頑固な、子供なんかにはお世話にならんでん良かと言うておった年寄りが、亡くなる頃には、御神米も頂くようになり、神様の話も聞くようになり、そして、魂の世界に入って。
それを真心一途に、神様にその事をお取次ぎを頂かれて、十日、二十日、三十日祭のお祭りを仕え終わられた時には、すでにもう、心が、素直になっておるという事です。これが、四十日祭には、もう一つ点が増えるだろう。五十日祭には、またも点が増えるだろう。言うなら、真の道に出ることが出来るであろう。この真の道をただ、ひたすらに、聴聞しながら、御理解を頂きながら、ね。心を愈々開いていくだろう、清めて行く事であろうと言う事でございますがです。
これは御霊様だけの事ではありません。お互い人間の世界においても、矢張り同じ事が言えるのでございます。御神縁を頂いておかげを頂いて、ね。いうならば心が素直になり、直くならせて頂いてそれに点が付いて、真の道を分からせてもらい。真の人間にならせて貰い人間の幸せは、ね。いうならば知恵の世の中では幸せにはなれない。ね。鬼の世の中ではおかげにはならん。鬼というのは、ね。角を生やしたあの鬼という意味ではなくて、親の言う事を聞かぬ子は、鬼子と昔から言うようにです。
親の言う事を聴かぬと言う事は、いうなら教祖の神様が、天地の親神様から受けられて、こういう在り方になる事が、人間の幸せへの道だと教えて下さっても、それを聞こうともしない人達を、私は鬼子というのであり、鬼というのではなかろうかと。そういう人達が如何に金光教は素晴らしいと言うて、いうならば世間に語りかけていっても、鬼の姿を見ただけで、みんながよく聞こうとはしないという意味だと思いました。これは世界中の事ではない。いうならば金光教の一つの縮図のようなものである。
百年経たせて頂いておるうちに段々、発展するものが段々さびれてきた。このような素晴らしい教えを内容に持っておるものが、どうしてだろうかと。その教えが人間の知恵やら頭やらで自分の良かごと、ね。教えをいわばひねくり回して、これが本当だあれが本当だと討論のいうならばような状態。ね。人が助かる事さえ出来ればと、教祖が仰るその助かる事さえというのが出来無くなって来たと言う事は、頭では助からん。心を清めた心が自由自在に使えれる。
和らぎ喜ぶ心を愈々目指していく人のお取次ぎによらなければ、人間は助からない。んならお取次ぎを願う、頂く所の私共も矢張りね。形じゃないものではない心に焦点を置かせて頂いて、知恵の世から心の世に心を切り替えて、一切の問題がそれは心にあるんだと悟らせてもらい。その心を清めて行く事に、改めて行く事に精進して行くと言う事が、真の道への手掛かりであるのです。
これは御霊様だけの事では、決してありません。そしてなら私共がです、今日ね熊谷さん所のお母さんの御霊じゃないけれども、それこそ崩すだけ崩した楽というだけでも、心の中が安らいできたならば、人間の幸せはここにあると思うのです。ね。しかもその楽が、ね。草書で書き楷書で書けて、もう誰が読んでも誰が見ても、楽と見れれるような楽の世界へ愈々、向かって行く事のために、お互いが信心の精進をしなければならない。愈々二十三日はそういう意味においてのです、ね。
心の魂の世界にある御霊様達が、合楽教会にご縁を頂いておる、全ての人達に一つの手掛かりを求めておるのです。ね。そして手掛かりをもとめて、金光大神の取次ぎによって助かろうとしておるのです。そういう御霊様たちを一堂に、ね。集まって頂いていうならば、ね。前世あの世のものが玉串の中、取り持たせて貰うて交流する日として、二十三日、霊様のいわば御大祭。春の御大祭がここで行われる事になるのです。思いを込めて、真心を込めて、それこそ這う子抱く子とこの辺では申しますが、ね。
それこそ孫も曾孫も、ね。家族中のものが手に手を取り合って、御霊様との交流を願わせて頂くというのが、御霊様のお祭りの意義でございます。ね。もう自分方は改式しとらんけんで、もう、合楽に御神縁を頂いておるほどしの全ての方達に、かかわりのある、もう沢山な御霊達が、皆さん皆さんの信心に手掛かりを求めておると思いなさいませよ。ね。そして私共がお取次ぎによって助かっていく事である事の様にです。御霊達もまた、愈々楽の世界へ愈々極楽の世界へ。
いうならば成仏を目指し、いうなら生神を目指させていただいての信心精進がです。あの世、この世を通して出けさせて頂かなければならない。それを私共は現世においてです。そういう心の開けれるおかげを頂くために、鬼の世から神の世に。知恵の世から心の世にとの転換を求めての信心生活でなからなければならんと言う事でございます。どうぞ二十三日は、一時からでございますから、お月次祭に併せての、お祭りでございますから、そのつもりでご参拝を頂きますようにお願いを致します。
どうぞ。